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先週の説教より

「神の国の秘密」 マルコによる福音書4章10-12節

主イエスは、「神の国の秘密」の究極的な根拠について、イザヤ書6章9-10節の言葉を用いて弟子たちに打ち明けられました。「それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」(11~12節)

 不思議な言葉です。ここで主イエスが言わんとしておられることは、神の言葉を聞くという信仰の問題は、人間の能力や資質の問題ではなく、神の裁きと選びの問題であるということです。つまり、神の言葉を聞くことにおいて、神ご自身が、主イエスの十字架の死に基づく限りない愛と赦しの中にあって、人間に対して裁きと選びを行なわれる、と言うのです。

神の言葉を謙遜に聞く者には、神が御言葉を働かせて、御言葉に生かされる喜びを味わわせてくださるが、神の言葉を謙遜に聞くことができない者には、神が御言葉を控えられるために、その者が悔い改めて神に「立ち帰る」までは、御言葉に生かされることが許されないのです。信仰には、このような神の裁きと選びの問題がある、と主イエスは言われるのです。

「種まき」のたとえ(3~8節)との関連で言えば、自分が神の御前に「道端」であり「石地」であり「茨」のような信仰の乏しい者であることを言い表し、神の言葉によって生かされることを心から願う者には、御言葉が働いて、30倍、60倍、百倍もの実を結ぶ「良い土地」になることができるが、神の御前に自分が「良い土地」であることを誇る者には、御言葉が働いてくださらないので、その者が自らの罪に気づいて神に立ち帰るまでは、「道端」「石地」「茨」に留まるのです。信仰の究極的な問題として、このような神の裁きと選びの問題がある、と主イエスは言われるのです。

牧師 柏木英雄
(2019年10月6日週報)