文字サイズ
  • 文字サイズを中にする
  • 文字サイズを大にする
MENU CLOSE
キービジュアル

先週の説教より

「怖くて尋ねられなかった」 マルコによる福音書9章30-32節(9/13説教)

 主イエスが2度目の受難予告をされた時、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(32節)のです。弟子たちは主イエスの受難予告の意味を知りたいと願いつつも「怖くて」尋ねることができなかったのです。 

 主イエスが十字架につけられることは、主イエスが「メシアではない」として否定されることでした。それは、主イエスが神から遣わされたメシアであると信じてすべてを捨てて主に従った弟子たちにとって、自分たちの信仰を、自分たち自身を否定されることを意味しました。それ故に、弟子たちにとって主イエスが受難を受けることは「とんでもないこと」(マタイ16章22節)であり、とても受け入れることができることではなかったのです。

 この時、弟子たちに求められていたことは、「自分」を捨てることでした。「とても受け入れられない」と言って、主イエスの受難予告を拒む「自分の思い」を捨てることでした。自分の思いを通すことは、主イエスに対する不従順の罪を犯すことだったからです。弟子たちはその自らの罪(不従順)に気づくべきだったのです。そして、あのてんかんの父親の「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24節)という叫びこそ、自分たちに求められている「信仰」であることに気づくべきだったのです。

 主イエスの十字架と復活の出来事が起こり、弟子たちがまったく主の弟子にふさわしくない、否、主の弟子で「ない」ことが明らかになった時、弟子たちは初めて自分たちがあの父親の叫び(信仰)に立つ以外にないものであることを悟ることができたのです。

牧師 柏木英雄