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先週の説教より

「天からのしるしを求める」マルコによる福音書8章11-13節 (7/19説教)

 「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」(11節)とあります。「天からのしるし」とは、主イエスが神から遣わされたメシアであることの「証拠」のことです。それを示せば、イエスを信じよう、というのです。しかし、主イエスに「天からのしるし」を求めること自体が、すでに主イエスを信じていないことの「証拠」なのです。なぜなら、主イエスを信じるとは、そのような証拠なしに、ただ主イエスにおける言葉と行動の真実に触れて、主イエスが神から遣わされた、神と共にある御方であることを信じることだからです。

 そうであれば、主イエスに天からのしるしを求める人は、たとえどのようなしるしを見せられても決してそれを認めようとはしないのです。初めから主イエスに対して心を閉ざしているからです。それ故に、主イエスは「今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」(12節)と言われたのです。

 マタイ福音書16章4節では「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われています。「ヨナのしるし」とは、主イエスの十字架の出来事のことです。そして、主イエスは「これはメシアではない」と断罪されて十字架につけられたのですから、主イエスの十字架は主イエスが「メシアではない」ことのしるしなのです。その「メシアではない」ことのしるしである主イエスの十字架こそ、主イエスがメシアであることの唯一のしるしである、と主イエスは言われるのです。メシアではないことのしるしである主イエスの十字架の死の真実に触れるところに、まことの信仰が成り立つのです。

牧師 柏木英雄