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先週の説教より

「心の目を開いて」 ルカによる福音書24章36-49節

 本日は、ルカ福音書24章36節以下から主イエスのご復活を覚えつつ礼拝を献げたいと思います。

 今日の36節以下に、主イエスがご自身の復活の体をあえて弟子たちにお見せになる場面が記されています。前回の個所では、復活された主イエスであることがわかると、そのとたんに姿が見えなくなることが記されていましたが、今日の個所では、復活の主イエスご自身から自分の体を弟子たちに見せておられるのです。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。こう言って、イエスは手と足をお見せになった」(39~40節)とあります。ご自身から自分の復活の体が本当に手と足を持った実在の人間の体であることを強調しておられるのです。そして、弟子たちが喜びつつもまだ信じられないでいると、「何か食べ物があるか」と言われ、焼いた魚が差し出されると、それを弟子たちの前で食べられたのです(41~43節)。いささか滑稽な感じもしますが、主イエスはご自身が本当に生きた実在の人間として復活されたことを強調しておられるのです。

 しかし、弟子たちは(そして私たちも)、主イエスの復活の体が実在の人間の体であることが強調されればされるほど、頭が混乱して、信じられない思いを抱いたのではないでしょうか。死んだ人間が「亡霊」(37節)として現れるなら、むしろその方が納得できるように思われるのですが、死んだ人間が実際に手や足を持ち、まして焼いた魚を実際に食べることができるような仕方で生き返ったとなると、私たちの理性は混乱し、ただただ困惑させられるばかりになるのです。

 なぜ、主イエスはこれほどまでにご自身の復活の体の実在性を強調されるのでしょうか。それは、ご自身の復活が本当に人間の死を克服し(死に勝利し)、本当の復活(死んだ人間が本当に生き返ること)であることを強調しようとしておられるからです。復活を一つの思想、一つの信仰・信念として考えることもできるし、むしろその方がわかりやすく筋が通っているように思われるのです。なまじその復活の体に手や足があり、焼いた魚を食べることができるなどと言わない方が主イエスの復活を信じやすい気がするのです。しかし、主イエスの復活の体の実在性が明確でなければ、必ず後になって主イエスの復活は本当の復活であったのかと疑いが生じてくるのです。弟子たち自身がそうなるかもしれないし、将来そのような疑いに弟子たちが悩まされる可能性があるのです。そこで主イエスは、ご自身の復活が本当の復活であることを弟子たちの心に刻みつけるために、あえてご自身の復活の実在性をあのように強調されたのだと思うのです。

 主イエスがそのようにご自身の復活の実在性を強調しても、それだけでは弟子たちが信じられないことは主イエスご自身よく知っておられました。そこで44節以下に記されているように、主イエスは「モーセの律法と預言者の書と詩編」を取り上げ、そこに、来るべきメシアの苦難と勝利としての復活が預言されていることを説き明かし、その説き明かし(説教)の力により、その中に働く聖霊の働き(死人をよみがえらせる全能の力)を通して弟子たちの「心の目を開く」(45節)ことによって、主イエスの復活が実在の出来事であることを弟子たちが心から信じるように導かれたのです。

 主イエスの復活の体の実在性について考えてみたいと思います。主イエスの復活のお体は、一言で言えば、「罪と死のない」体、言い換えれば、神の復活の(永遠の)命に満ちあふれた清い体、ということです。しかし、私たちは「罪と死のない」体というものを考えることができません。そのような存在は人間世界の中には実在しないからです。そもそも「罪のない」体ということさえ考えることができません。まして罪と死がない、罪と死から完全に守られ体というものを考えることは不可能です。しかし、主イエスはそのような「罪と死のない」体として、しかも手や足を持ち、焼いた魚を食べることのできる実在の人間存在として復活されたのです。私たちはそのような存在を人間の理性で考え抜くことはできませんが、主イエスは事実そのようなお方として神の全能の御力によって復活されたのです。そしてその主イエスの復活のお体は、主イエスによって救われ、主イエスの復活の命に生かされる将来の私たち信仰者の復活の姿でもあるのです。

 これらのことを念頭に置きながら、まず主イエスの生前のお体について考えてみたいと思います。主イエスの生前のお体は、主イエスが一人のユダヤ人男性としてマリアの胎の中からお生まれになったのですから、私たちと全く同じ人間存在としての実在性を持っておられました。ただ、主イエスが私たちと決定的に違うのは、主イエスには「罪がない」ということでした。罪がないと言っても、人の目に見えることとしてではなく、神の御前にあってのことです。神がご覧になって、従って、本当に罪がない、本当に清いということです。それは主イエスが聖霊によってお生まれになりそして生きられたからです。主イエスはその存在の初めから聖霊によって導かれていたので、あらゆる人間の罪の肉の働きから守られておられたのですが、それは、主イエスが罪のない清い状態をいわばご自身の中に所有しておられたからではなく、主イエスが一人の人間として日々を「アッバ、父よ」と父なる神に祈りつつ歩まれ、その祈りに父なる神が聖霊のご臨在をもって豊かに答えてくださることによって、主イエスの中で常に新しい出来事として起こっていたことによるのです。つまり主イエスにおいて常に豊かに「インマヌエル」(神共にいます)恵みが実現され、そのようなお方として日々を生きられた故に、主イエスはどのような状況の中でも肉の働きから守られることができたのです。

 ガラテヤ書5章19節に「肉の業は、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」とあり、22節に「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とあります。主イエスは「肉の業」から守られ、「霊の結ぶ実」に常に豊かに満たされながら、一人の人間として地上の日々を歩まれたのです。しかも主イエスは、そういうご自身を誇ることなく、いつもさりげなく一人の人間仲間として生きられたのです。そうであれば、「罪のない」主イエスの人間存在そのものがすでに「奇跡」なのです。そのような主イエスの人間存在そのものがすでに(隠れた仕方において)死人をよみがえらせる神の全能の復活の御力の中にあったのです。そして、主イエスが罪のない本当の清さの中に生きられた故に、人間の罪を負う贖いの死を全うすることがおできになったのです。

 さて、主イエスにはもう一つの課題がありました。(人間の最後の敵である)死に勝利するという課題でした。主イエスは聖霊の助けの中で罪に勝利しつつ歩まれましたが、死に勝利することはまだ課題として残されていたのです。主イエスが死に勝利し、従って、罪と死の両方に勝利することによって、初めて主イエスは本当の救い主になられるのです。そして、死に勝利することは、実際に死んで、そこから生き返る(よみがえる)ことを意味しました。それが主イエスのメシアとしての最後の課題だったのです。罪の贖いとして十字架の死を遂げることがメシアとしての最も重要な使命でしたが、その十字架の死を(信仰をもって)全うすることによって、死に勝利し復活の命を明らかにすることが、同時に課題として与えられていたのです。

 ヘブライ書2章14節~15節に「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」とあります。「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たち」とは私たち人間のことです。私たちは「死の恐怖」によってサタンに支配されているのです。死は怖くないと口では言っても、私たちは心深く死を恐れるものなのです。このサタンの支配から私たち人間を解放するために、主イエスは来られたのです。そうであるなら、主イエスご自身が一人の人間として深く死の脅かしを受けつつ、その脅かしに勝利することによって、サタンに打ち勝たなければならなかったのです。それがメシアとしての使命であり、そのことなしに人間をサタンの支配から解放することはできなかったのです。

 そのために主イエスに課せられたことは、死の恐れを極みまで味わいつつ、死の恐れに屈して神への信頼を失うことなく、神への信頼を守り抜くことでした。それによって死に勝利し、サタンに勝利することでした。そしてそのことが同時に、罪の贖いを成就することでした。

 そのために、主イエスは実際に死ななければならなかったのです。少し乱暴な言い方をすれば、死んでみせなければならなかったのです。神への信仰を守りつつ死ぬことによって、死に勝利し、それによってサタンに勝利する(それはサタンの滅びを意味する!)ことを明らかにしなければならなかったのです。メシアとしての主イエスにのみ課せられた課題でした。

 サタンはまず、死をもって主イエスを脅かしたのです。実際に死んでしまえば、おまえが目指していることは無意味になるではないか、生きてこそお前の働きは意味を持つのではないか、死ぬことより生きることの方が大事ではないか。そう言ってサタンは、主イエスが十字架の死を遂げようとすることを思いとどめようとしたのです。罪の贖いのために死ぬより、生きて人々を導いた方がよいではないか、と主イエスの心にささやいたのです。

 もし主イエスがそのサタンのささやきに屈していたら、人間の罪の贖いとしての十字架の死はなかったのです。しかし、主イエスは「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8章33節)と言って、主イエスの十字架の死を思いとどまらせようとしたペトロを叱られたように、サタンの誘惑を退け、死によるサタンの支配を打ち破るために、そして罪の贖いを実現するために、主イエスは十字架の死への道を歩み続けられたのです。

 そうであれば、主イエスの十字架の死は、何よりもサタンとの戦いの死であったのです。サタンは主イエスが十字架の死を全うすることをやめさせたかったのです。主イエスが十字架の死を全うされては困るのです。それはサタンの敗北(滅び)を意味したからです。それ故にサタンは全力で主イエスの十字架の死を阻止しようとしたのです。そしてそれがかなわないことを知ると、今や十字架の死の恐ろしさをもって主イエスを脅かしたのです。主イエスの神信頼を打ち砕こうとしたのです。十字架の死の恐ろしさをもって主イエスの神信頼を砕くことができるなら、サタンの闇(罪と死)の王国は安泰だからです。

 主イエスの十字架の死は、人間的にも恐ろしい無残な死でしたが、その本質がサタンとの戦いであった故に、いっそう残忍なものだったのです。誰も経験したことのないそして誰もそれに勝利したことのない最も恐ろしい戦いであったのです。もし主イエスがこの戦いに負ければ、今までの主イエスのメシアとしての働きはすべて無意味になるし、主イエスはメシアとして挫折し、人間の救いの道は閉ざされることになるのです。そして、それは神ご自身の敗北を意味したのです。

 サタンは、十字架の苦しみの中で、主イエスの魂を絶望に陥れようと迫ったのです。お前は神から遣わされたメシアとして、罪の贖いの死を遂げようとしているが、そんなことはやめてしまえ、十字架の死を耐え忍ぶことなどやめ、ヨブの妻が言ったように神を呪って死んだらいいではないか(ヨブ記2章9節)」と言って、十字架の苦しみのただ中で主イエスを誘惑したのです。しかし、主イエスは決してサタンに耳を貸そうとはされなかったのです。どんなに十字架の苦しみが深くなっても、主イエスはサタンに降伏することはなかったのです。

 主イエスは十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)と謎のような言葉を残して息を引き取られました。それは絶望の声のようであり、十字架の苦しさに負けて神への信頼を捨てたかのような言葉でした。確かに主イエスご自身、神から「見捨てられた」ように思われたのではないでしょうか。主イエスはすべての人間を代表して罪の贖いのために十字架の死を遂げることがご自身の使命と自覚していました。しかし主イエスの十字架の死は、主イエスの考え以上に厳しく苦しいもので、主イエスご自身が本当に神から「見捨てられた」ように思われるほどのものだったのではないでしょうか。そして事実、神は十字架上の主イエスに対して何の助けも(聖霊の助けも!)をお与えにならなかったのです。主イエスは全く敵のなすままに(人々はしたい放題をしたのです!)、サタンの暴虐の中に放任され、完全に神から見捨てられた状況に置かれ、その中で息を引き取られたのです。

 主イエスの十字架の死は、主イエスの敗北であり、主イエスに敵対する人々のそしてサタンの勝利のように見えたのです。しかし主イエスは、そのような状況の中で、何より主イエスご自身が神に「捨てられた」と思わされるような絶望の極にあって、しかし、主イエスは「わが神、わが神」と叫ばれたのです。宗教改革者カルヴァンは、ここに主イエスの最後究極の「神信頼」があると言っています。人々だけでなく、神からも見捨てられたような状況の中にありながらも、主イエスは父なる神への信頼をお捨てにならなかったのです。主イエスの十字架の死は主イエスの敗北であり、主イエスに敵対する人々の勝利であり、サタンの勝利のように思われましたが、実は、神の御目には「勝利」の死だったのです。なぜなら、主イエスは最後まで父なる神への信頼をお捨てにならなかったからです。どんなに苦しく神からも見捨てられたかのような状況の中にあっても、主イエスは父なる神への信頼を失わなかったのです。主イエスの叫びは絶望の極にあっての主イエスの最後の神信頼の叫びだったのです。主イエスはサタンに勝利したのです。そして、そのことの証明が主イエスの復活でした。主イエスの十字架の死が真実に神への信頼の中での死であり、すべての人間を代表しての罪の裁きを受ける贖いの死であることを、天の父なる神ご自身が認めてくださったのです。それ故に、主イエスは神の全能の御力によって死者からの復活を果たし、罪と死に勝利したまことの救い主としてその座におつきになったのです。

 こうして主イエスは、「罪と死のない」、神の永遠の命に満ちた復活の体を弟子たちにお見せになったのです。しかし、主イエスの復活の体は、弟子たちが触ってその実在を確かめることができるとしても、それによって信じることができるものではありません。主イエスの復活は、復活の主ご自身の働きの中で、復活の主イエスが十字架の主イエスと同じ方であり、生前の主イエスと少しも変わらない愛と赦しに満ちたお方であり、聖書に証しされているメシアであることに「心の目が開かれる」ことによって、初めて心から信じることができるものなのです。

 主イエスの弟子の一人トマスは、主イエスが本当によみがえったのなら、その体に十字架の傷跡があるはずだ、それを確かめなければ決して信じないと言い張りました(ヨハネ福音書20章24節以下)。ある時、トマスの前に復活の主が現れ、ご自身の体の中に刻まれている十字架の傷跡を見せて「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたのです。その時トマスは、復活の主イエスの御前に「わたしの主、わたしの神よ」と言ってひれ伏したのです。

 トマスは主イエスの十字架の傷跡に触ったのでしょうか。触る必要がなかったのではないでしょうか。なぜならトマスは、復活の主イエスの中に十字架の主イエスを見たからです。どこまでもトマスのわがままを許し受け入れてくださる主イエスの十字架の限りない愛と赦しを、復活の主イエスの中に見ることができたからです。復活の主イエスの中に、変わることのない主イエスの真実の愛を見たのです。その時、トマスの「心の目が開かれ」、心砕かれ、「わが主よ、わが神よ」と言ってトマスは復活の主イエスの御前にひれ伏したのです。

 「見ないで信じる者は、幸いである」と復活の主イエスは言われました。主イエスのご復活は、御言葉によって主イエスの真実の愛に触れ、聖霊の助けの中で「心の目が開かれる」ことを通して心から信じることができるのです。