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先週の説教より

「生きるとはキリスト、死ぬことは利益」(聖徒の日礼拝) フィリピの信徒への手紙1章20-25節(11月2日説教)

 21節に「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」とあります。パウロにとって人間として「生きる」ことは、キリストの霊の助け(19節)によって生かされつつ生きることであって、それ以外の「生きる」ことは考えられませんでした。なぜなら、キリストの霊から離れるなら、必ず罪が働くことをパウロはよく知っていたからです。

 「わたしの五体にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7章23節以下)と言っています。主キリストだけが罪ある人間を救ってくださるのです。それなら、常に新しくキリストを求め、キリストの霊によって生かされる以外に生きる道はないのです。その意味で、パウロにとって「生きるとはキリスト」なのです。

 「死ぬことは利益です」とはどういう意味でしょうか。私たちは死ぬことは全てを失い、無に帰することだと考えがちです。しかし、信仰者にとって死はキリストの救いの完成を意味するのです。なぜなら、信仰者が地上に生きる限り、常に罪によってキリストの救いに生きる生活が妨げられるからです。

 しかし、信仰者が死ねば、罪との戦いが終わるのです。肉体の死と共に肉体の中に働く罪も死ぬからです。地上に生きる間、キリストの救いに生きる生活を妨げてきた罪が死によって取り除かれることによって、信仰者は死を経てキリストの全き救いの御手の中に入れられるのです。信仰者は、地上の命を終えた時、死の向こう側で待っていてくださる復活の主キリストの救いの御手に抱き入れられるのです。それ故に、信仰者にとって「死ぬことは利益」なのです。

牧師 柏木英雄