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先週の説教より

「神の言葉を無にしない」 マルコによる福音書7章1-13節 

「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(8節)、「受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」(13節)と、主イエスはエルサレムから来たファリサイ派の人々と律法者たちを厳しく批判しました。

「言い伝え」とは、「律法」(十戒)を実際生活に生かす意図をもって生み出された具体的な教え(口伝伝承)のことです。この言い伝えの問題は、それを守れば律法を守ることになると考えた点です。それによって律法に背いていると主イエスは批判されたのです。その具体例として「コルバン」(神への供え物)という言い伝えを取り上げ、これを守ることによって「父母を敬え」という律法の掟に従わない自分たちを正当化している、と批判されたのです(11~12節)。故意ではなくても結果としてそうしていると言われるのです。


「言い伝え」を守ることが「律法」を行うことである、と考えるところに問題があるのです。律法を行うとは、律法を「神の言葉」(神が語る言葉)として聞くということです。律法を神の言葉として聞くとは、律法を通して語られる神の言葉(命令)に対して、アーメンと言ってそれに服することです。その時、律法自身が、律法を行う力を私たちに与えてくれるのです。律法をアーメンと言って従順に聞くことができないのであれば、たとえコルバンの教えを守ったとしても、真に律法を行ったことにはならないのです。


大切なことは、律法を神の言葉としてアーメンと言って従順に聞くことができるかどうかなのです。もしできないなら、その自らの不従順を、素直に神の御前に言い表し、神の赦しと助けを求めるべきなのです。そこで「コルバン」を用いて不従順な自分を正当化しないことです。そこに「神の言葉を無にしない」(神の言葉に生かされる)信仰者の生き方があるのです。

牧師 柏木英雄