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先週の説教より

「二人の目が開け」 ルカによる福音書24章13-35節(4/27説教)

 復活の主イエスは、復活された日の午後、エルサレムからエマオに向かう二人の無名の弟子たちに姿を隠して現れました。このことに心惹かれます。復活の主は人を分け隔てなさらないのです。どんな小さな者にも御自身を現し、御自身の命の中に生かそうとされるのです。

 二人の目が「遮られていた」(16節)のは本来的なことです。人間の側から人間の力で復活の主を認識することは不可能なのです。復活の主御自身から御自身を明らかにしてくださらなければ、誰も復活の主を認識することはできないのです。

 復活の主は二人の弟子と寄り添うように歩みを共にしてくださいました。このことにも深く心打たれます。復活の主はまさに姿を隠して、いや、聖霊の働きの中で私たち一人一人の日々の歩み(人生の歩み)に伴ってくださり、私たちを導き、復活の主が共にいてくださる救いの事実(インマヌエル)を知ることができるように導いてくださるのです。

 「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」(28節)とあります。なぜ復活の主はそのような態度を取られたのでしょうか。なぜ御自身を打ち明けられなかったのでしょうか。それは弟子たちの方から主を求めることを望んでおられたからではないでしょうか。主は、熱心に主を求める者に喜んで御自身を啓示してくださるのです。主を求めるまで待っておられるのです。

 「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった」(30~31節)とあります。「パンを裂く」とは聖餐を行うということです。聖餐が行われた時、主イエスの十字架の死が単に敵によって無残に殺された死(20節)ではなく、人間の罪の贖いのために主御自身が自らを献げてくださった死であることが、二人の弟子の心に示されたのです。その時、二人の心の目が開かれ、その御方が復活の主であることに気づかされ、二人は復活の主イエスの命に生かされる者とされたのです。

牧師 柏木英雄