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先週の説教より

「光の中を歩む」 ヨハネの手紙一1章5-10節(1/14説教)

 5節に「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」とあります。神が光りであって闇が全くないということは、神は「隠し事」をお嫌いになるということではないでしょうか。アダムとエバが禁断の木の実を食べたことは確かに神に対して罪を犯すことですが、それを神の御前に「隠そうとした」ことが一層悪いことだったのです(創世記3章10節)。神は罪を犯したことは(主イエスの故に)お赦しになるのです。しかし、それを「隠す」ことはお赦しにならないのです。なぜなら、神の御前に罪を隠すことによって、私たちは一層罪の深みの中にのめり込んでしまうからです。

 神は、私たちが正直に(幼子のような従順を持って!)罪を言い表すことを求めておられるのです。そして罪を言い表す者を(キリストの十字架の故に)赦し、キリストの復活の命によって罪清められた者として生きることができるようにしてくださるのです。9節に「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」とある通りです。

 7節に「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち」とあります。神の御前に罪を告白しつつ生きることが「光の中を歩む」ことです。それが神との「交わり」を持つということです。「光」であり「光の中におられる」神は、私たちの罪の告白を喜ばれる方なのです。

 私たちが主イエスを通して教えられる神とは、そのような御方なのです。全くの罪人でありながら、主イエスの十字架と復活と聖霊降臨の恵みの故に「光の中を歩む」ことができる者とされている幸いを深く思うものです。

牧師 柏木英雄