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先週の説教より

「わたしの兄弟である最も小さい者」(聖徒の日礼拝) マタイによる福音書25章31-46節(11/5説教)

 31節以下に主イエスによる「最後の審判」のことが記されています。主イエスは終わりの日にすべての人(生きている人だけでなく死んだ人も!)を羊飼いが羊と山羊を分けるように救われる者とそうでない者とをより分けると言うのです。ただその主イエスの審判が私たちの思いを越える、全く意外なものなのです。自分は今まで真剣に信仰に生きてきたし礼拝にも励んできたから当然救われるほうに分けられると思っていた者が滅びのほうに分けられ、自分は全く信仰に不熱心だったし礼拝に出席することもなかったから当然滅ぼされると思っていた者が救いのほうに選ばれると言うのです。

 なぜこのようなことが起こるのでしょうか。主イエスはこう言っておられます。40節「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」、45節「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」。主イエスはご自分をこの世の最も小さい者の一人と言っておられるのです。そしてそのことを「基準」にして審判を行っているのです。

 どうしたら私たちはこのような視点を手に入れることができるのでしょうか。それは主イエスの十字架の姿の中に自分を見ることによってではないでしょうか。十字架の主イエスこそご自分をこの世の最も小さい者の一人とされた姿です。この主イエスの姿の中に自分の姿を見るのです。つまり、主イエスはわたしの罪の裁きと赦しのために十字架にかかってくださったことを心から受け入れるのです。そのことができた時、私たちも自分をこの世の最も小さい者の一人として見ることができ、この世の最も小さい者の兄弟である主イエスのために仕える力を与えられることができるのではないでしょうか。

牧師 柏木英雄