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先週の説教より

「あなたがたは神の神殿」コリントの信徒への手紙一3章16-17節(9/3説教)

 16節に「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とあります。イエス・キリストが「土台」として魂の根底(存在の根底)に据えられている(11節)という事実を踏まえて、パウロは信仰者を「神の霊」(聖霊)が住んでいてくださる「神の神殿」であると言っています。「土台」としていてくださるキリストが「聖霊」において生きて働いてくださる、と言うのです。

 17節で「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう」と言っています。「神の神殿を壊す者」とは、何より神の神殿である信仰者自身のことです。自分が「神の神殿」であることを否定するのです。言い換えれば、「土台」としていてくださるイエス・キリストを否定するのです。「既に据えられている土台を無視して」(11節)「ほかの土台」(自分自身)の上に生きようとするのです。その時は、もはや「火の中をくぐり抜けて来た者のように救われる」(15節)ということも、ない、と言うのです。キリストを否定するということは、キリストの十字架によって「わたしのすべての罪が赦されている」ということを否定することです。そのような生き方は自ずから自分で自分を滅ぼす生き方となるのではないでしょうか。

 「神の神殿」として生きるとはどのようなことでしょうか。自分の中の不信仰によく気づいて、キリストの十字架の赦しに頼ることです。自分の不信仰をいい加減にしないことです。罪を罪として言い表すことです。「正義と不法」「光と闇」「信仰と不信仰」の間には何の関り(一致、調和)もないのですから(Ⅱコリント6章14~16節)。その時、キリストが聖霊の内に働き、私たちを「神の神殿」にふさわしい清さ(正しさ)の中に生かしてくださるのです。

牧師 柏木英雄