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先週の説教より

「キリストの思いを抱く」コリントの信徒への手紙一2章10-16節(8/6説教)

 14節に「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです」とあります。弟子たちも初めは主イエスの十字架の死を理解できませんでした。神の御子メシアである方が十字架の死を遂げるなどということは馬鹿げたことであり、決してあってはならないことに思えたのです。このように考えた弟子たちはまだ「自然の人」(「肉の人」3章1節)であり、人間的な思いに深く囚われていたのです。弟子たちが主イエスを信じて主の弟子になったことは確かに霊的な事柄(主の霊の働きによること)でしたが、主イエスの受難の問題に直面して弟子たちの「肉」(罪)の本質が露わになったのです。

 Ⅰペトロ2章23節以下にこうあります。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」このような生き方は人間的には愚かで空しいことのように思えるのではないでしょうか。正しく生きているなら、堂々と自分を主張して生きたらいいではないかと思うのです。しかし、主イエスにとって悪(罪)に負けることが敗北だったのです。どんなに悪を受けても、悪をもって悪に返さず、善をもって悪に勝利することが、人間の罪を贖う御子メシアの生き方であるとお考えになったのです。そしてこの考えに従って十字架の死に至るまでの従順を貫くことによって、主イエスは人間の罪の贖いを実現してくださったのです。

 この主のお心に基づく十字架の死によって、私たちはすべての罪を赦され、主の清き命に生かされるものとされたのです。そうであれば、どうしてこの主のお心を軽んじることができるでしょうか。この「キリストの思い」(16節)を「わが思い」として生きる以外にないと思うのです。

牧師 柏木英雄