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先週の説教より

「ここにはおられない」(イースター礼拝) ルカによる福音書24章1-12節(4/9説教)

 婦人たちは日曜日の朝早く主イエスの墓へ行きました。それは主イエスが金曜日の夕方、安息日が始まる直前に十字架上で死なれ、主イエスの体が手早く十字架から降ろされ墓に葬られたからです。婦人たちはその主イエスの体を香油で清め、改めて丁寧に主イエスを葬るために主イエスの墓へ向かったのです。主イエスがよみがえるなどという考えは頭の片隅にもありませんでした。

 婦人たちが主イエスの墓へ行ってみると、墓の入り口をふさいでいた大きな石がわきへ転がされていました。婦人たちが不思議に思いながら墓に入ると、主の体はありませんでした。何が起こったのか、深い困惑が婦人たちを襲いました。その時、二人の天使が現れこう言ったのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(5~7節)。

 主イエスがまだ生きておられる時に、御自分の復活を予告することができたということが不思議なことではないでしょうか。なぜ主イエスはそのようなことをすることができたのでしょうか。それは主イエスが御自分の中に神の全能の御力が働かれることを知っていたからです。その御力によって主イエスは多くの力ある御業を行うことができたのです。この御力によって(必ず)三日目に復活することを信じて、主イエスは十字架の死を全うされたのです。

 婦人たちは、天使によってそのことに気づかされた時、同じ神の御力によって「心の目が開かれる」(24章45節)ことによって、初めて本当に主イエスが死に勝利し、復活されたことを信じることができるように導かれたのです。

牧師 柏木英雄