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先週の説教より

「祝福を受け継ぐために」 ペトロの手紙(一)3章8-12節(2/26説教)

 2章11節以下に「神の僕として生きる」生き方が述べられています。18節では召し使いに対して無慈悲な主人にも心から仕えることが求められ、3章1節では妻に対して御言葉を信じない夫にも従順に仕えることが求められています。もっとも、7節では信仰ある夫は妻を「命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」とも言われているのですが。

 そういう文脈の中で、3章8節「終わりに、皆心を一つに~」と言ってすべての信仰者に対して「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いない」(9節)生き方が求められているのです。

 なぜ、信仰者にはこのような人間的には理不尽とも思える生き方が求められているのでしょうか。それは、信仰者はすべての人間のために、いや、自分のためにはるかに理不尽な苦しみを忍んで救いの道を開いてくださった主キリストの御苦しみを知っているからです。そのキリストの十字架の御苦しみに従うことが求められているからです。2章21節に「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」とある通りです。

 では、キリストに従って私たちが理不尽な苦しみを忍ぶ時、何が起こるのでしょうか。神の祝福を受けるのです。神がそういう私たちを喜んでくださり、キリストの霊的臨在の恵みによって私たちの魂を満たし、「主共にいます」(インマヌエル)恵みの中に生きることができるように導いてくださるからです。それ故に、私たちは喜んで理不尽な苦しみを忍ぶことができるのです。

 9節に「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」とあります。世にあってこの神の祝福を受け継ぐために、私たち信仰者は召されているのです。

牧師 柏木英雄