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先週の説教より

「魂の牧者のもとに」ペトロの手紙(一)2章21-25節(2/12説教)

 25節に「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」とあります。「魂の牧者」であり「監督者」とは、私たちが信じる主イエス・キリストのことです。「魂の牧者」とは私たちの魂を真に養ってくださる牧会者(羊飼い)のことであり、「監督者」とは上から目線で監視するのではなく、深い愛と赦しの中で私たちの魂が健全であるように見守ってくださる「保護者」のことです。

 主イエスは決して信仰の弱い私たちを責め、辱め、見捨てるようなことをされません。どこまでも深い愛と赦しをもって私たちを受け入れ、私たちの信仰を励ましてくださるのです。ペトロは主イエスを見つめている間は、湖の上を歩くことができました。しかし、周囲の風や波に心を取られ、主から目を離した時、自分が湖の上を歩くことができている事実を疑い、不安になり、湖の中でおぼれそうになりました。その時主は、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(マタイ14章31節)と叱責しつつも、直ちに強い御腕をもってペトロを助けてくださいました。ペトロはこのような主イエスを念頭に置きながら「魂の牧者」であり「監督者」と言っているのです。

 22~23節に「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」とあります。主イエスは十字架の死においてこそ罪を犯されませんでした。まるでご自分が裁きを受けているかのように真に十字架の死を忍び抜かれることによって、主イエスはすべての人間の罪を贖ってくださったのです。主イエスがこのように真実な御方である故に、私たちはただ一人主イエスだけを「魂の牧者」「監督者」として信頼するのです。

牧師 柏木英雄