先週の説教より
「わたしに倣う者となりなさい」フィリピの信徒への手紙3章17-4章1節(7/10説教)
パウロは「わたしに倣う者になりなさい」(17節)と言いました。パウロの何に「倣え」というのでしょうか。それは「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです」(12節)という常に新しくキリストを求める姿です。この姿に「倣え」とパウロは言うのです。なぜなら、このような姿こそ真にキリストに「捕らえられている」信仰者の姿だからです。
キリストの救いは私たち人間の手の中に「捕えて」しまうことはできず、常に新しくキリストご自身の御手からいただかなければならない恵みだからです。人間の支配の中に入れられた恵みは、もはや真の(神の)恵みではなく、「腐ったマナ」(出エジプト16章20節)でしかないからです。
それに対して、自分たちは「割礼」を受けているから既に救いを「得ている」「完全な者になっている」と言って、自分たちの救いを誇るユダヤ主義的キリスト教徒たち(3章2節)は、常に新しくキリストを求めることをしない故に、真に救われた者の生き方と言うことはできず、表向きはキリストを信じていながら、実は「キリストの十字架に敵対して」(18節)歩んでおり、「腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていない」不信仰な生き方でしかなく、「彼らの行き着くところは滅び」(19節)である、とパウロは言うのです。
真の信仰は「万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(21節)ことを信じて、常に新しくキリストを求め、その恵み(キリストの霊的臨在の恵み)に生かされる生活である、とパウロは言うのです。
牧師 柏木英雄