文字サイズ
  • 文字サイズを中にする
  • 文字サイズを大にする
MENU CLOSE
キービジュアル

先週の説教より

「知る力と見抜く力を身に着け」フィリピの信徒への手紙1章8~11節(3/20説教)

 パウロの心を一番悩ませたのは、ローマ帝国やユダヤ教徒といった異教徒たちによる迫害ではなく、同じ主イエス・キリストを信じる信仰の立場に立ちながら、その信じ方(福音理解)の違いによる不一致という教会内の問題でした。そのような問題がフィリピ教会の中にもあったことが1章15節以下の言葉からうかがえます。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみや争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は~愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。」(1章15~17節)

 当時のキリスト教会の中には二つの代表的な「異なる」福音理解があったと考えられます。一つはユダヤ主義的な福音理解であり、もう一つはグノーシス主義的な福音理解です。前者は律法(特に割礼)を強調し、律法(割礼)を行わなければ救いは完成しないと主張しました。後者はギリシャ・ローマ的な「知恵」(グノーシス)を重んじる立場から、主イエスを信じれば救いは「所有される」と考えました。

 これら二つの福音理解に共通なことは神の御前における「悔い改め」を喜ばないことです。まことの福音理解は、神の御前に常に新しく一人の罪人として立ち、悔い改めの心を献げ、生けるキリストの臨在の恵みに与りつつ生きることです。二つの異なる福音理解はそのような悔い改めを嫌がり、拒むのです。キリストの救いを悔い改めなしに得たいと考えるのです。このことを念頭に置いてパウロはフィリピ教会の人々に「知る力と見抜く力を身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」(9節)と語ったのです。

牧師 柏木英雄