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先週の説教より

「そんな人は知らない」  マルコによる福音書14章66-72節(10/31説教)

 ペトロは大祭司の中庭に入り、裁かれる主イエスの一部始終を目撃したのです。そこには、不利な証言にも関わらず自分の正しさを弁明しようとしない主イエスの姿がありました。主イエスが「人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来る」と言って、自分が神から遣わされたまことのメシアであることを明言したにもかからわず、その主イエスの御言葉の前にひれ伏すどころか、その言葉の故に「衣を引き裂いて」イエスを神を冒涜する者として断罪することによって、主イエスの言葉がこの世の現実の中ではまったく無力であることが明らかにされました。そして、人々に愚弄され辱め尽くされる惨めな主イエスの姿がそこにありました(56~65節)。

 ペトロが大祭司の庭で目撃した主イエスの姿は、ペトロが今まで見たことのない、まったく別人の主イエスの姿でした。その姿にペトロは躓いたのです。そのようなイエスは自分が信じるお方ではない、と思ったのです。そこからペトロの躓きが始まったのです。大祭司に仕える一人の女中に始まり、居合わせた周囲の人々から追及されることによって、ペトロは呪うように、誓うように「そんな人は知らない」と三度主イエスを否定したのです。

 三度目に主イエスを否定した時、直ちに鶏の二度目の鳴き声が響き渡り、ペトロは「鶏が二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主イエスの御言葉を思い出し、自分が主イエスの言われた通りの人間であることを思い知らされ、突然泣き始めたのです。しかし、鶏が二度鳴くということは、夜明けの始まりを意味します。新しい信仰の夜明けが始まったのです。ペトロが自らの罪深さを本当に知り、主イエスの十字架と復活が自分のための出来事でもあることを知ることを通して、ただ主の十字架の赦しと復活の霊の恵みによって生きる新しい信仰生活への歩みがここから始まったのです。

牧師 柏木英雄