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教会だより

「天からのしるしを求める」マルコによる福音書8章11-13節

 11節に「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」とあります。「天からのしるし」とは、神から遣わされたメシアであることを証明する証拠ということです。イエスが本当に神から遣わされたメシアであるなら、その証拠を示せ、というのです。このことの背景として、すぐ前に行われた四千人の給食の奇跡が考えられます。それほど多くの人が主イエスを信頼して集まって来たことが、同じ信仰の指導者の立場にある者として心穏やかでなく、そのためにイエスにメシアであることの証拠を示せと迫ったのでしょう。

 しかし、主イエスを信じることは、証拠を見て信じるものではありません。ただ主イエスの語る言葉を聞き、行う業を見て、心の中で「この方こそ神から遣わされたメシアである」と信じるのです。そうであるなら、イエスにメシアであることの証拠を求めるということ自体が、すでに主イエスを信じていないことの「証拠」なのです。すでに主イエスに対して心を閉ざしているのです。それなら、そういう人はその他どんな証拠を見せられても、決してそれによってイエスを信じることはないのです。初めから主イエスに対して心を閉ざしているのですから。

 12節にこう記されています。「イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。『どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。』」

 「今の時代の者たち」とは、この世の人々のことです。この世の人々はいつの時代においても「メシアのしるし」を求めると言って、主イエスは嘆いておられるのです。誰が見ても一目瞭然にメシアであることが分かるような証拠を求めるのです。言い換えれば、神の御前に罪が問われることがないような仕方で、従って、悔い改めが求められることがないような仕方で、メシアを求めるのです。結局、誰もが喜んで認めることができるようなメシアを求めるということです。この世の人々はいつの時代もそういうメシアを求めるのです。しかし、そういうメシアのしるしは決して与えられない、と主イエスは言われるのです。

 マタイ福音書16章4節に「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とあります。つまり、この世の人々に与えられるメシアのしるしがあるとすれば、それは「ヨナのしるし」だけである、と主イエスは言われるのです。ヨナのしるしとは、ヨナが「三日三晩魚の腹の中にいた」(ヨナ2章1節)ということから、主イエスの十字架の死を意味しています。イエスの十字架の死だけが、イエスがまことのメシアであることの唯一のしるしである、と主イエスは言われるのです。

 しかし、主イエスは「メシアではない」と断罪されて十字架に付けられたのですから、主イエスの十字架は「メシアではない」ことのしるしなのです。そうであるなら、「メシアではない」というしるしだけが、主イエスがまことのメシアであることの真のしるしである、と主イエスは言われるのです。

 主イエスは、すべての人間の罪の贖いのために十字架の死を全うすることが自分のメシアとしての使命であるとお考えになりました。それなら、十字架の死を真実に受け抜くことが主イエスの課題であったのです。それ故に主イエスは、人々が「お前はメシアではない、メシアと自称している偽メシアである」と断罪してイエスを十字架に付けた、その十字架の死を拒むことなく、どこまでも従順に受け入れ、十字架の死を全うされたのです。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになられた」(Ⅰペトロ2章23節)と記されている通りです。

 主イエスが自分の十字架の死を受け入れるということは、自分が一人の罪人として断罪されることを主イエスが承諾されたことを意味しました。そうであるなら、その死の様は本当に惨めな、無残な、文字通り罪人の断罪の死でありました。しかし、主イエスがそのような死を真実に受け抜いてくださることによって、すべての人間の罪の贖いが成就され、すべての人間が罪と死に勝利する復活の命に生きることのできる救いの道が開かれたのです。

 主イエスの十字架の死はまったく惨めな一人の罪人の断罪の死でしたが、その十字架の死を従順に受け抜いてくださるところに、主イエスのメシアとしての真実がありました。そのイエスの十字架の死の真実に気づいた人がいたのです。イエスの十字架の死を初めから終わりまで見守っていた異邦の百人隊長でした。彼は主イエスの十字架の死の真実に触れ、「本当に、この人は神の子だった」(マルコ福音書15章39節)と語ったのです。主イエスの十字架の死の真実が異邦の百人隊長の心を捕らえたのです。

 主イエスは、「メシアではない」ことのしるしである十字架の死を真実に受けることによって、まことのメシアであることを証ししてくださったのです。この世のすべての人がこのイエスの十字架の死の真実に触れて、心からイエスをまことのメシアとして信じることを主イエスは願っておられるのです。

牧師 柏木英雄