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教会だより

「信仰のない、よこしまな時代」 ルカによる福音書9章37-43節(10/18説教)

 主イエスが3人の弟子と共に山を下り、下界に戻られると(37節)、弟子たち(主イエスと共に山に登らなかった残りの9人の弟子たち)が悪霊につかれた子供を癒すことができないという弟子たちの「無力」が露わになる出来事が、起こっていました。40節に「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした」とある通りです。

 なぜ、9人の弟子たちは悪霊を追い出すことができなかったのでしょうか。それは、主イエスの受難予告(9章22節以下)が影響しているのではないでしょうか。主イエスの受難予告のために、9人の弟子たちは主の弟子として生きる気力(熱心)を失い、祈りを怠っていたからではないでしょうか。祈りを怠ることによって、主共にいます(インマヌエルの)恵みを失い、主の弟子として生きる力(霊的な力)を失っていたからではないでしょうか。

 41節で主イエスは「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と言っておられます。主イエスが受難を受けない栄光のメシアであるなら、主イエスを信じるが、受難を受けるのなら、主イエスを信じることができないという弟子たちの信仰は正しい信仰ではないという意味を込めて、主イエスは「信仰のない、よこしまな時代」と言われたのではないでしょうか。弟子たちが自分たちの不信仰、否、信仰のないことに気づき、そこで心から主の助けを祈ることができた時、初めて弟子たちは主の弟子として生きる力を与えられるのです。

 主イエスが悪霊(癲癇の霊)に悩む子供の父親に対して「できれば」と言うのかと言って、父親の不信仰を責められた時、父親は「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫びました(マルコ9章24節)。この父親の叫びこそ、この時の弟子たちに最も必要なものであったのではないでしょうか。

牧師 柏木英雄