教会だより
「二人の目はさえぎられて」 ルカによる福音書24章13-27節(4/12説教)
「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(19~21節)と二人の弟子は言っています。このようなイエス理解が問題なのです。このように理解している限り、二人の弟子は主イエスの復活を信じることができず、二人の目は「さえぎられたまま」であらざるを得なかったのです。
主イエスの十字架の死は私たち人間一人一人の罪の贖いのための死だったのです。「わたしの罪のために」主イエスは十字架にかかられたのです。確かに実際に主イエスを十字架につけたのは祭司長や議員たちでしたが、私たち一人一人の罪が主イエスを十字架につけたのです。主イエスを拒む「わたしの罪」が主イエスを十字架につけたのです。その罪の裁きを主イエスが十字架の死によって代わって担ってくださることによって、私たち一人一人のすべての罪が贖われ、赦され、罪人が罪人のままで主イエスの復活の命に与って、罪清められ、救われる道が開かれたのです。このように主イエスの十字架と復活を理解しない限り、私たちは主の十字架と復活を信じることができないのです。
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(25~26節)と復活の主は言われました。主イエスは初めから「苦難のメシア」として来られ、苦難(十字架)を通して「栄光」(復活)に至るメシアとして歩まれたのです。そういうメシアとして主イエスを信じることが私たちすべての人間に求められているのです。
牧師 柏木英雄
