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教会だより

「わたしは使徒である」 コリントの信徒への手紙一9章1-2節(4/14説教)

 1節でパウロは「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか」と言っています。なぜこのようなことを言っているのでしょうか。それは、すぐ前の8章13節「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と語ったことを受けて言っているのです。キリストの「使徒」である以上、そのくらいの「自由」に生きることができなくてどうする、という気持ちでしょう。主イエスに本当に出会った者であるなら、それくらいの自由(不自由を選ぶ自由)に生きることは当然である、そういうパウロの気概がこの言葉に込められているのではないでしょうか。

 キリストによって「使徒」(遣わされた者)とされたということは、そのような「自由」(喜んで不自由を選ぶ自由)に生きる力を与えられた者であるということです。復活の主に出会ったということは、肉の思いを清められてキリストにある「自由」(愛)に生きることができる者とされたということです。そういうパウロの(使徒としての)自負が語られているのです。

 1節後半以下で「あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。~あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです」と言っています。コリント教会の人たちがキリストを信じる者となったのは、パウロを通して生けるキリストがコリント教会の人たちに証しされ、生けるキリストがコリント教会の人たちの魂を捕らえてくださったからであると言うのです。パウロは使徒としての自分の力を誇っているのではないのです。自分のような者(かつてキリスト教徒迫害者であった者)をも捕らえて、真に新しく生かしてくださるキリストの力を誇っているのです。

牧師 柏木英雄