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教会だより

「生きるとはキリスト」フィリピの信徒への手紙1章20~26節(4/24説教)

 20節に「どんなことにも恥をかかず、~生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に~希望しています」とあります。「恥をかく」とは、キリストを信じると言いながら、その人のどこにキリストが生きて働いておられるのか分からない、まるで少しもキリストを信じていないようだと人に思われるなら、それは「恥をかく」ことになるのではないでしょうか。人前で恥をかくだけでなく、神の御前で、神に対して恥をかくのではないでしょうか。そうではなく、「生きるにも死ぬにも」どんな時にも、自分の身によってキリストを信じることの偉大さ(尊さ)が明らかにされ、キリストが公に崇められるようになることを切に希望している、とパウロは言っているのです。

 そのパウロにとって「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益」(21節)なのです。この世のどこに生きようとも、たとえ獄の中であっても、パウロにとって「生きる」とは、「キリストと共に」生きることであり、キリストから離れた生活はないのです。私たちはそれでは息が詰まるのではないかと思うのですが、パウロにとってキリストと共に生きることは、十字架と復活と聖霊によって働き給う主キリストのもとに自分のすべての(罪の)重荷を下ろして安らうことである故に、少しも重荷ではなく、むしろまことの平安に生きることなのです。自分の中にキリストが生きてくださる(ガラテヤ2章20節)ことを喜びと感謝のうちに覚えることなのです。そして「死ぬ」ことは、罪の囚われと支配から解放されて、キリストの全き御支配の中に入れられることである故に「利益」(儲けのもの)である、とパウロは言うのです。

牧師 柏木英雄