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教会だより

「初めに言があった」 ヨハネによる福音書1章1-5節(1/2説教)

 「初めに言があった」という「初め」とは、万物の創造の初め(創世記1章1節)のことであり、「言」(ロゴス)とは、神の意志(御心)で、主イエス・キリストご自身を指しています。主イエスは神の御心そのものであり、主イエスの中に神の御心の全てが表わされているのです。ですから、神の御心を知るためには、主イエスを見ればよいのです。この世の現実や自然災害を見れば、神の存在を疑いたくなりますが、主イエスを見つめれば、神が真に憐れみ深い恵みの神としていてくださることが分かるのです。

 主イエスが神の「言」(ロゴス)であるとは、主イエスの人間存在の根底に常に神の言葉があり、神の意志が働いているということです。主イエスがマリアの胎の中から聖霊によって生まれたということも同じことを意味しています。主イエスは確かにマリアから生まれた私たちとまったく同じ一人の人間なのですが、主イエスの存在の根底には常に聖霊、即ち、神ご自身がおられ、主イエスがいつも神の御心に従って生きておられる故に、主イエスは常に罪から守られた清いお方として生きることがおできになったのです。その意味で、主イエスは罪の暗闇に輝く唯一の光(5節a)なのです。

 人々はこの主イエスを理解することができず(5節b)、自称メシアとして人を欺き、神を冒瀆する人間として十字架につけてしまったのです。しかし主イエスは、そういう人間の罪(不信仰)を受け入れ、十字架の死を真実の愛と神への執り成しの祈りの内に全うしてくださることによって、死に勝利する復活の命を現わし、いよいよ人間の罪の暗闇に輝く光(救い主)として今も生きて働いていてくださるのです。

牧師 柏木英雄