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教会だより

「過越の食事をする」  マルコによる福音書14章12-21節(9/19説教)

 主イエスは、弟子たちとの最後の過越の食事の席で「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)と言われました。なぜ主イエスはこのようなことを食事の席であえて言われたのでしょうか。それは、主イエスが裏切りを知らずにいるのではなく、そのことを十分に承知の上で十字架にかかるのであり、その裏切りの罪も主イエスの十字架の贖いの中にあることを弟子たちに、特にユダに知って欲しいと願われたからではないでしょうか。

 その時、弟子たちは「心を痛め、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」(19節)のです。弟子たちは皆、内心主イエスの受難はない方がいいと思っていたので、その心が主イエスに見透かされたと恐れたのです。しかし、こういう正直な弟子たちである故に、主イエスの十字架と復活の出来事が起こった後、主イエスの十字架の死が自分たちの罪の贖いのためでもあったことを知ることを通して、真に主の弟子として生きる者となることができたのです。

 その時、ユダは少しも動揺しなかったのではないでしょうか。なぜなら、ユダにとって主イエスはもはや「主」(メシア)ではなく、銀貨30枚で売り渡してもかまわない(奴隷のごとき)存在になっていたからです。そのユダについて主イエスは「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(21節)と言われたのです。裏切りそのものを責めているのではないのです。そうではなく、主イエスを裏切ることによって、その者自身が主イエスに頼ることができなくなる不幸を言っているのです。人間として生まれた以上、どんな罪の現実の中にあっても、主イエスの十字架と復活の恵みに頼ることによって生きる望みを与えられるべきであり、それができずに虚無と絶望の中に死ぬくらいなら、その者はむしろ生まれてこなかった方が良かった、と主イエスは言っておられるのです。

牧師 柏木英雄