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教会だより

「十字架から降りて見ろ」 マルコによる福音書15章21-32節(3/28説教)

 「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(29~32節)と言って、主イエスは十字架上で激しい嘲りを受けられました。この嘲りの中にサタンの誘惑があったのです。主イエスの公生涯の直前にイエスを誘惑して敗北したサタンが、主イエスの十字架の死に際して最後の挑戦をしているのです。「自分を救えないメシアがどこにいるか」と言って主イエスを辱め、主イエスの神信仰を破壊し、虚無と絶望に陥れようとしているのです。

 しかし、主イエスは決してサタンの誘惑にのることはありませんでした。激しい嘲りの中にあって、主イエスはすべてを父なる神の御手に委ねながら、本当に「他人は救ったのに、自分は救えない」偽メシア、大罪人として裁かれつつ十字架の死を受けることによって、まことのメシアとしてすべての人間の罪の贖いの死を成就されたのです。

 主イエスは十字架の死を遂げる時、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(34節)と叫んで息を引き取られました。主イエスは自分が本当に神から「見捨てられた」とお感じになったのです。しかしそれは、主イエスの「敗北」を意味しなかったのです。むしろ、自分が神から「見捨てられ」てこそ、すべての人間に代わって裁きを受ける罪の贖いの死が「成就された」とお考えになったのです。それ故に、主イエスはヨハネ福音書によれば「成し遂げられた」(19章30節)と言って息を引き取られたのです。ここに、主イエスのメシアとしての真の「勝利」があったのです。

牧師 柏木英雄